布の紐を頭に巻いて夏の蚊よけにした。

糸くず、綿ごみを男の子の「マリ、毬」にしていた。

サグリ一着、小布一貫目 サグリ一着作るのに、古手木綿(小布)一貫目(4キロ)を必要とした。明治から大正にかけて、温暖地方の京や大阪からの日本海交易で、タデ(稲藁のツト)に入って来る古手木綿や小布は雑多なものだった。ほとんどボロに等しいもので、中にはウンコのついたオシメ(おむつ)まで入っていることがあった。買い付けする商人の阿漕(あこぎ)さが覗かれるものだった。一タデに布が五、六貫入っており、主婦達は五、六人で一つを買い求め分けていた。一貫目が五十銭〜七十銭ぐらいだった。当時米一俵が一円五十銭ぐらいだったから、主婦にとって高い買い物だった。
 雑多な古手木綿は汚れ、ゴミがついているので、洗って乾かし、チュチュ(皮はぎとよばれる魚)の皮で布の綿ゴミをとっていた。チュチュの皮は、干すと鮫の皮のようにザラザラしていた。現在のブラシの役目を果たしていたのである。さて、当時の五十銭〜七十銭は現在の価格にすると、時々の相場もあるが、三千円か四千円である。今なら子供の小遣い程度のお金で買い求めた小布を使い、丹精込めて一枚のサグリを作り、それを日常的に何年も着続けた人々が、寒さ厳しい東北の海辺の村」にいたのである。

タバネツギ また農山村には、明治末から大正時代に「タバネツギ」として、古手木綿が多量に入って来た。良質に見える布で表面を囲み、中に何が入っているのか分からないようにしていた。三〜五センチ程の厚さの布束で、主婦達は中にどんなものが入っているのか、胸踊らせながら買い求めていた。
 四十年近く前、私が農、山村へ衣服調査のためにいくと、「オメ(貴方)タベトか」と姥達に言われた。タベトとは旅人、古手木綿を背にして村から村へ売り歩く、古手木綿商人のことだった。
 人々はその古手木綿を活用して長着や短着、袖なしを作り、前かけも作った。しかし一反の布でないため、布をつぎ足し、張り合わせる事が多かった。
 下北の漁村でのことである。姥が声をひそめて「昔、船が難破して漁夫の死体が海辺に打ち寄せられると、その漁夫の着ていた着物を剥ぎ取り、村の人達が分けていた」と教えた。また「資産家の人が亡くなると、葬式の行列で親族の人達が白木綿布を肩に掛けたり、被ったりする。焼場の所で白木綿をはずすが、それを遺体と一緒に焼かず、村の人々が分けて肌着や裏地に使っていた。また桶に入っている遺体からも布を剥ぐことがあった」と言う、棺桶に遺体が入り、集落のはずれや海辺で焼かれていた頃のことである。

"布は生き物だ。心がある" 東北は寒冷地のために、綿花が栽培されない。東北、特に青森の人々は、温かく柔らかい木綿布に対する憧れが強かった。老いた体にとって、古手木綿で作られた下着(襦袢)は温かい。赤ちゃんのオシメにも、柔らかくて良かった。木綿のオシメを四枚使えれば良い方で、それも何枚も何枚もつぎ足したものだった。古手木綿の小布は衣の擦り切れ、破れた部分を補強するのに役立つが、その小布さえ持たない家もあった。親族や資産家の家に行き、「ツギ(小布)をください」と頭を下げたと言う。
 私が若かった頃に、祖母が話していた。「ツギ、風呂敷で一包みできたら嫁もらえ。結婚すれば子供が出来る、ツギでオシメが作れる」と。祖母は衣をほどく時に、米の研ぎ汁に衣を浸し、縫い糸が引っ張りやすいようにしていた。布も糸も切ることはなかった。引き抜いた糸は短いが、私の足袋の底の刺し糸に使うので、結び目が多く痛かった記憶がある。「布は生き物だ。心がある。」というのが祖母の口癖だった。
 布、今なら、たかが布きれと言うだろうが、ひと昔、ふた昔と溯ると、北国にとって衣、布は生活に欠かせぬ大事なものだった。布をつぎはぎした衣、本来の布地が分からないような衣を、今私達はいとも気楽に蔑視を込めてボロ着物と言う。また、それらの衣を見て「汚い、愚かな人よ」と思うかも知れない。当時の人々は、ボロをボロと見なかった。弱い布は、いとおしみながら裂織にした。小さい布はつぎはぎ用に、柔らかい布は赤ちゃんのオシメにした。また布を織る際の腰帯にした。そして可愛く綺麗な小布ではアヤコ(お手玉)を作り、女の子が遊んだ。男の子には糸クズ、綿ゴミを丸めてマリを作ってやっていた。

布の美しくも壮絶なドラマ  糸が形を変えて様々に活用された後、布自体の生命が終わろうとする時、それを縄状に綯った。夏は蚊が多い。畑での草取りの際、それを頭に巻いて先端に火をつけ、布が燃え煙になると蚊除けになる。布は燃えて灰となり、地に落ちて行く。綿花は地から生まれ、布となり、最後は再び地に還っていく。人と共にあった布が人と同じように灰となり地に戻るのである。何と美しくも壮絶なドラマであろう。
 私は今、姥達の遺してくれた衣とボロ布(小布)を傍にして想う。北国の女達の心優しさと、厳しい風土に逞しく生きた姿、いとしい程の美しく健気な心に胸を打たれる。

全国裂織ニュース20号
 

布の美しくも壮絶なドラマ
田中 忠三郎

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1軒の家にあった多様な布、大小の小布は300枚以上。衣、足袋、手袋等100点以上。

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(北海道・東北民具研究会会長)

サッコリ、サグリ  「『サッコリ』『サグリ』は末代ものだ」と、姥が話していた。木綿布を引き裂き、糸状にしたものを緯糸とし、縦糸は麻だった。イザリ機(織機)で織り上げ、裂織の短着や長着を作っていた、サグリは潮風や寒風に強かった。海で働く漁夫と共に、海辺の村や野山で働く女性達も着用した。女性用は縦糸として麻糸でなく白太木綿糸を使ってアクセントをつけ、少しの華やかさがあった。
 明治末期、漁村にゴム長靴、雨合羽が入らない頃は、雨の日や吹雪の日にサグリを着、稲藁製のケラを背につけ、稲藁の靴を履いて、小船に乗り漁をしていた。大正期に入るとゴム長靴が入り、木綿衣を着られるようになった。しかし寒風の日は、綿入りの木綿衣よりもサグリの方が働きやすく、ゴム長靴は船べりに足をかけても滑りやすいために藁靴が良かったという。木綿衣は何枚も重ね着しないと寒いが、サグリは下着の上に一枚着るだけだった。汗はじきも良かったという。海辺の人々に人気のあったサグリ。長く着続けられたサグリも、昭和に入ると、サグリを織る人も着る人もいなくなった。

裂織用に細く切り裂き、玉を作る状態にしてあった。

裂織用の布として分類して結んであった。
(保存されたまま)